プロフェッショナル論について

私が映画を観るときは、どうしても「観るだけ以上のこと」は想像できないんですが、これが本を読むときだったら、「こんなの俺でも書けるわい」と思ってしまう場合も時々あるんです。一体この差はなにか、を考えてみました。「映画撮るのはしんどいよね、時間も金もかかるし。でも文章書くなら時間はかかっても金はかかんないよね」…多分こんな感じで、私は考えているのだと思います。まあそんなことを、ツラツラとまとまりなく書いてみます。

もう少し話題を拡げてみましょう。スキルやセンスはこの際脇に置いとくといて、いろんな人がそれぞれの得意分野で、「こんな映画俺でも作れるわい」「こんな漫画俺でも〜」「こんな音楽俺でも〜」と感じた経験を恐らく持っていることでしょう。そんな皆さんはとんでもない思い上がり野郎ですけどw、こりゃひどいなっていう作品なんて世の中にはいくらでもあるのも確かです。

作品を発表する機会やチャネルが増えて、機材や道具が進歩して価格も安くなり、プロのノウハウが共有され…ということが際限なく繰り返されたら、(レベルの低い)プロと(レベルの高い)アマの境界線は、これから曖昧になっていくのでしょうか。あるいは逆に、(レベルの高い)プロとアマの境界線ははっきりしていくとも考えられます。というのは、「これはすごい」「俺には無理!」という作品にソーシャルなレビューとタグが際限なく打たれていけば、その時点でプロとアマの作品の違いは圧倒的なものになる、という構図です。これもまた一種の格差社会でしょうかね。

プロがプロと名乗るのであれば、「素人に圧倒的な力の差を見せつけてやる」べきだという考えがあります。この言葉は恐らく「圧倒的な評価の差」という意味だろうと思います。スポーツの分野であれば明確にプロとアマは力量で分かれますけど、お笑いについてはどうなんだ、という点で、この発言には多少の苛つきがあったのかもしれません。

では「素人に圧倒的な差を見せつける方法」ですが、そうなると今度は技術論ではなくなるんですよね。例えば美人であれば、コネがあれば、若ければ、金持ちならば、仮にその作品が全然おもしろくないものでも、ナンチャラ賞を軽く受賞している作家さんはいっぱいいますし、なおかつ売れまくってしまうということは最近でもありました。それに対して「八百長やめろ!」「作品だけを公平に評価しろ!」と言いますけれど、たとえばオリコン上位の曲に対してそんな提案をしても、空しいだけですね。ボクシングや相撲や野球であればこの抗議は分かるんですが…あっ、フィギュアスケートであれば微妙でしょうかね。きわめて公平に、その作品だけを評価している芸術の分野ってあるんでしょうか。そもそも公平に評価をするということは可能なんでしょうか。

これらの考察から「芸術世界はすべてヤオである」と言ってしまってもいいんです。が、最終的に生き残るのはやっぱり技術と才能のある者だけであることを私たちは経験上知ってますから、まだ許してあげられるんでしょう。