『歴史認識を乗り越える』を読みました

小倉紀蔵さんの『歴史認識を乗り越える』を読みました〜。

歴史認識を乗り越える (講談社現代新書)
小倉 紀蔵
講談社
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サブタイトルが「日中韓の対話を拒むものは何か」。

帯には「靖国問題従軍慰安婦南京事件、歴史教科書……不毛な議論に打たれた61年目の終止符/「ひたすら謝罪」でも、「嫌韓・反中」でもない真の対話がここからはじまる」。

…と、書いてあることが本書の内容そのものでした。確かに東アジアは難問でしょうけれども、テレビ報道やブログなどでいつも見ている地点とあまり変わらず、角度のきつい意見というわけでもなく、「日本は自由と民主主義をセンターとする」という普遍性を持った論点でした。やっぱりそこが物足りない点でもあります。しかし不毛な議論を終わりにさせるには、案外このくらいの結論なんでしょう。

私はこれら東アジアの歴史認識の問題では、右派も左派も、永遠に議論を終わらせたくないというのが本心なのではないかと思っています。終わらないところに安住して次の世代にぜひとも持ち越してもらいたいという企みのように思えます。それでも議論を超えて、現実の政治は止まらずに常に動いているもんですから、大したもんですなあとは思いました。政治家のというより官僚の仕事なんでしょうね。

靖国神社に代わる国立追悼施設を建てるとして、その建築デザインをどのようなものにするかという難問があります。もし仮に、右派と左派とを統一し、自由と民主主義をデザインできたとしても、なんかこうただのダサいもの、あるいはダサくなくてもただかっこいいだけのもの、になる可能性は大いにあります。この「追悼施設のデザインをどうするか」という問題こそが、私たちが東アジアでの問題を先送りしてしまう問題そのものではないか、ということに気づかされました。

例えばアメリカなら、「自由と民主主義」が国旗や国家にデザインされているわけですよ。もし本当に「自由と民主主義」を日本が担うとするなら、ご存知の通り君が代日の丸ではないってことになる。それ相当の覚悟でもって、自由と民主主義のために血を流さなければならない、ってまるでブッシュ大統領みたいなこと言ってますけれども。

めんどくさいですねえ。内田樹さんの『日本辺境論 (新潮新書)』でも思いましたが、辺境国としての日本が東アジアの地政学的関係の上に置かれた時に、まともに強力なリーダーシップを発揮できるとは思えないんですね。日本は、概念としての中華をどのようにも体現できない、天皇陛下を中心にした八紘一宇という宣伝文句も的を射ていません。しかし、では概念としての中華とは、フィクションとしての中華でもあり得るのだから、仮に中華人民共和国共産党がそのフィクションを土台とした上で東アジアの盟主になろうとしても、やはり無理でしょう。このように東アジアがまとまらないのは、まさに前世紀の西洋中心の思想やコロニアリズム、あるいは南北問題、東西問題などの西洋中心の政治力学の影響であることは確かです。思想という点では、西洋に対する東洋がもはや壊滅状態なのかもしれません。だから本当は、これから中江兆民幸徳秋水白川静宮本常一をガツガツ読み解くことこそが、数少ない道なのではないか、本当に超えていかなければならないのは、儒教であり朱子学なのではないか、と思いました。