『私の旧約聖書』を読みました

色川武大さんの『私の旧約聖書』を読みました〜。

神保町に「丸香(まるか)」といううどん屋があってあそこはマジ旨いんすよね〜! 昼時はいつも並んで食べられないので、わざと午後の3時くらいに神保町の書店を回ってから行くと並ばずに食べられることもあります。そのうどん屋の近く、白山通り沿いに「友愛書房」というキリスト教関連専門の古書店がありまして、本好きならばキリスト教に興味がなくてもちょっとオノボリさん気分で寄ってみたくなる、「いかにも神保町」という本屋さんでして。そこは、何万もする聖書の研究書や地方の教会の何十年史や古くさい洋書やら、ごっつい本ばかりなんであんまり一般人には関係ないんですが、その中で見つけたのが、この奇跡の良書でした。

色川さんといったら麻雀の人、漫画『哲也』のモデルですが、あの人はクリスチャンだったかな…などと思いつつ、またいつものとおり積んでおりました。読んでみたらもう、凄まじく面白い。たかだか200円で手に入れた文庫本ですが、これはもう、古本屋で買ったのが申し訳ないほどに感動しました。そしてこれが今、新刊として手に入れられないのがひどいと思います。

色川さんは神を「イェホバ氏」「イェホバさん」と呼び、人格が一致しないちょっと困った「人間」のように記述します。

旧約というのは新約の前の「旧い」契約という意味で、神と人間の契約です。人間から見たら、こっちは崇拝するからちゃんと幸せにしろよ、という関係のはずなんですが、神の方は人間にいろいろ難癖つけながら、いつも幸せにするとは限らない。神イェホバと預言者アブラハムとのやりとりが、まるで雀卓を囲んだ会話のように解釈されていきます。

「もう老いぼれて、子供もないし、私の血はまもなく絶えてしまう。イェホバさんのおっしゃる幸せというのは、どういうものですか」
 と鋭い質問をするアブラハムですから、その質問のおかげで授かった子を、燔祭として捧げなさい、とイェホバ氏にいわれたときに、何を思ったでしょう。

 何食わぬ顔で、一人息子を縛り、犠牲としていまや刀を振りおろそうとする、その表情は、息子を材料に大きな賭けをしている者のそれではありますまいか。

 息子を、ここで手にかけて殺してしまえば、以前の質問の時点にまた立ち返ることになる。息子が死に、アブラハムの不充足が満たされないとすると、つまり、神の存在を立証することがむずかしくなるのですよ、それでもあんたは息子の命を奪うのですか、という無言の質問が、アブラハムの態度から発せられていたとすると、イェホバ氏も困るのですね。

まさに神と人間のスリリングな駆け引きっ…! ザワ…ザワ…しますね。ちなみにこの有名なくだりは、キルケゴールも研究の題材にした部分です。

神による「カードの撒き直し」は、本書でたびたび登場するフレーズです。神と人間のカードゲームなんですが、ゲームが終りに近づくと、神はいつもせっかく配ったカードをごちゃごちゃにして、もう一度始めから撒き直す。神にとっても、終末が訪れて人間がひとりもいなくなれば神もいなくなるわけです。人間あっての神、ということです。そういう視点で旧約聖書を読めるというのが無頼の色川さんの強みなんですね。

それにしても、博打に命削ってその後生き残った方々というのは、修羅場で深く考えを巡らしただけあって、人の見方や物事の考え方がとても鮮明です。千や万のサンプルを見続けてきた結果なんでしょう。「神頼み」なんてのはしないと思いますが、ギャンブル上級者は神様の置き所をちゃんと持ってるんだろうと思います(「神なんていねえよ」という人も含めて)。その上で、あの色川さんが旧約聖書に若い無頼の時代に読んで感動し、ここまで掘り下げたこと自体が面白いんです。

私としても旧約聖書に触れたのは生まれて初めてでした。個人的には「ヨブ記」や「伝道の書」は続けて掘り下げたいと感じました。