『日本の神々』を読みました

谷川健一さんの『日本の神々』を読みました〜。

日本の神々 (岩波新書)
谷川 健一
岩波書店
売り上げランキング: 21248

南西諸島、アイヌ、出雲や京都や東北、日本書紀ユーカラやおもろそうしを、自由に行ったり来たりしながら、日本の神々の原型となるものを次々とあぶり出していきます。柳田学や折口学と言われる民俗学的な知見をもとにしてますが、も〜うね、知識の詰め込み方が半端なくって、タイトルから想像できる内容以上に熱量の高い新書でした。知恵熱でぶっ倒れそうです。

なにしろ、ネタが次々と現れてきます。ほとんど脈絡なく。このスピード感で授業をする先生だったら嫌われるでしょう。しかし谷川センセイの頭ではすべて繋がっている話なわけで、何度も谷川センセイの頭の中で咀嚼されたトピックが立て板に水の如く書かれるんですね。地頭のいい人はとにかく咀嚼のスピードが違いますから、この本の場合、一字一句読み返して理解しようとするのはちょっと読み方が間違っているのかもしれません。スピード感についていくことがまずキモだと思います。

民俗学の学徒になった人で現在ポスドクっていう知り合いがいますけれども、今はもうサッパリっすわ〜っていうのを聞きました。柳田折口の時代より少し後の、谷川さんが1970年代に出会った沖縄の集落の祭りの衝撃ってのは、ほとんど谷川さんの民俗学の原点に近い体験だろうし、やっぱり民俗学の学生にとってはうらやましいものでしょう。自然と人間の関わりでまずひとつ神の概念が生まれるっていう、世界中どこにでもあるわけで、ナバホの自然に対する見方はまさに神そのものだし、宗教じゃなくても、あらぶる自然の中にひとり人間が立てば、ほとんど神を感じるわけです。『明るい旅情』で池澤夏樹さんが書いてたのをふと思い出しました。

「人間の世界」を考えたことはない。どんな場合にも相手にすべきは「人間と世界」という構図だ。人と世界は常に対峙している。それを最も明快に見ることのできる場所、それがサッドだった。

海の向こうからやってきたものとの交流でまた神が生まれるっていう過程も知りました。鉄器製造に関わる考察はほとんど谷川さんの登録商標みたいなもんなんですが、その鉄器が船に乗ってあちこち渡って各地でこりゃすげえって話になったと。九州の西側では庶民レベルで船があちこち交流があったなんてことは、多分ロマンでもなんでもなくってごく普通の話だったことも、さらに確信できました。外来の文化を神にしてしまうのは、私たちも目撃しています。「神様仏様バース様」ですね。「アメリカ様」って言葉もありますか。沖縄の米軍基地も原発も、神にはなれなかったようですね。

ワタクシ、実は折口も柳田もハマらなかったんですよねー。圧倒的なフィールドワーク、古今東西書物の渉猟、超絶スピードでそれらを解釈して、結局最後にもってくるのは、自由に心を遊ばせて考えた推論でしかないんじゃないの、っていう部分には、地味に違和感を覚えていたものです(その点ゆっくりと噛み含めるような宮本常一さんは好きなんすよねー)。小松左京さんが短編で茶化したように、民俗学が学問と呼ばれるためには云々…って話もね、なんか今さら感がありますけど、谷川さんの文章は、自由に想像力を働かせている点で学問を逸脱するもんだろうし、それはそれとして読むのがいいんでしょうね。

しょせん神ないし神々をなにかに同定することは到底できないわけで、その仰ぎ見るっていう点では哲学者も民俗学者も一民衆となんら変わらないんすよ。ただ谷川さんのこの本でとても大事だなと思ったのは、歴史をなぞった物語がまた歴史に還元されていくんだなーというイメージですね。記録された物語と記録されるべき歴史の、螺旋状の連環というか…あれ、これなんだっけか、忘れました。