『本に読まれて』を読みました

須賀敦子さんの『本に読まれて』を読みました〜。

本に読まれて (中公文庫)
須賀 敦子
中央公論新社
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須賀さんの歿後に編集された書評集です。私が読了した須賀さんの著作では、『地図のない道』に続いて本年3冊目っす。須賀さんの著作は、自分としては割と丁寧に時間をかけて読んでしまいます。

須賀さんは一体どんな本を読んでいたのだろう、という単純な興味から読んだのですがいやはや…大変です。訳書の場合には当然のごとく翻訳の善し悪しにも軽く言及するのだから、須賀さんって翻訳家としても相当の人だったんでしょうね。語学をやらない、選択肢として日本語の書物しか読めない自分としては、翻訳家のステージの高低が分からないのですね。翻訳された現代詩集も何冊か取り上げてますが、そこらへんに手が伸びるのは、現代詩の翻訳が、翻訳家のハードルとして高いものだから興味があるんだろうなと。いやしかし、詩は難しいでしょう。詩はねえな、と。今の私では、まず日本語の現代詩だってままならないでしょう。詩を愛せるかどうかが、文芸を愛する、言語を愛することのひとつの指標になるのかと思うと、この須賀さんと私の遥かな落差が、もうなんだか惜しくてなりません。もっと勉強しときゃよかった!

とまあ、後悔先に立たずとも言いますしね。ではソレ以外のところで須賀さんとお近づきになってみましょうか。

この本で須賀さんの経歴の、大体の横顔を感じられたのは幸いです。エッセイ風な書評なので、やっぱり端々ににじみ出るもんです。まず昭和初年生まれの須賀さんは、敗戦時には学生で、お腹をすかせた本の虫だったと。そして、多分二度と日本に帰ってこない覚悟で、貨物船に乗ってフランスに行ったんです。この選択肢は、やっぱり敗戦が絡んでいるだけにそんなに幸福なものとは感じられないんですが、しかし今振り返れば、一度日本を諦めた、諦めざるを得なかった体験というのは、この時代、この世代ならではのことでしょう。河合隼雄さんも、臨床心理学を学ぼうと思ったら海外に行くしかなかったのだと言ってましたし、思想的に(もちろん物質的にも)ハングリーだった時代に海外に寄る辺を求めた、と書くと、明治以降ずっとそんな感じじゃねえの日本って、と思ってしまいそうですが、御維新と敗戦では打ちのめされ方が相当違うでしょう。

んで須賀さん、欧州に行きます。フランスとイタリアを体験して、まずひとつの大きな地中海圏の歴史と思想をものにしたんでしょう。これは日本にいて西洋だ東洋だと論じることがバカらしいほどに、血肉となったんじゃないかなあと思います。こればっかりは観光旅行では身に付かない。欧州中心主義と言うともうちょっと政治的な考えになるかもしれませんが、西洋科学がずっと昔から追ってきたような、普遍的な巨視的な視点が、どうして欧州が持ち得たのだろう、その点を興味のひとつにしたんだろうなあと。だからイタリアとか、フランスとか、そういう個々の文化についてよりも、地中海全体についての本、汎ヨーロッパについての著作が割と多く取り上げられます。いつでも欧州の地理が頭の中にあって、モロッコがありイタリアがありアルプス山脈があり、それからずっとプラハの方まで、体験に近い知識を持っているわけです。まず私はこれが足りないんで、このあたりのこと書いている本をまず一冊読みたいもんです。多分、池澤夏樹さんと非常に似た「欧州」なんじゃないかなって気がします。

ほんで須賀さん、ひょんなことからコルシア書店と知り合ってとても濃密な時間を過ごすんですが、フランスの五月革命を筆頭として、ヨーロッパ全土の若者が熱狂した左翼運動、ここに触れるんですね〜。五月革命は1968年です。その頃日本では超くだらないあさま山荘事件ってのが1972年にありました。今となっては「政治の季節」と一言で終わってしまいますけど、須賀さんはこの同時代の作家を結構愛されていますね。イタリアの学生だったらみんな読んでたような本は片っ端から読んでた風です。イタリアの現代詩とは多分この同時代のものでしょう。想像ですけどガルシア=マルケスのヒット作なんてのもイタリア語訳でどんどん読めたんじゃないかなあって気がします。埴谷雄高なんて読む暇ないくらいに、いろんな刺激的な本が現地にはあったんだろうなあと考えると、日本は残念!とどうしても思えちゃいますね。本書でも須賀さんは日本における外国文学の読まれなさを憂いているフシがありますが、きっとそんな体験によるもんでしょう。

それから、これが須賀さんを文学に導いた最大の契機でしょうね、夫の死去です。本書で須賀さんが、川端康成にイタリアで会ってインタビューした話があって、川端先生はなんだかカッコいいことを言ってるんですよね、ここ非常に面白かったです。死や病、消滅をテーマに据えた著作をかなり多く紹介する傾向があるのは、須賀さんご自身が死別による空白を体験したからでしょう、って言うのは簡単ですけどね。ともかくも作家あるいは作中人物の生と死を、いつもよく見ていらっしゃってて、それはつまりプロットの本質をついているわけで、当然ちゃんと読めているっつー話です。

本書で紹介されている本については、もったいないので、ここでは一切触れません。読みたい本がまた増えてしまいました…果てしないっすなあ…。