『言語の興亡』を読みました

R.M.W. ディクソンの『言語の興亡』を読みました〜。

言語の興亡 (岩波新書)
R.M.W. ディクソン
岩波書店
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これ…結構古い本でもう10年くらいたってるんでしょうか、だからこそ言うのですが、「岩波新書はハンパネエ」んです。恐らく岩波新書のクラシックスに入っている本ではないかと。これは『豊かさの精神病理』とか『知的生産の技術』とか、どんな大学の教養課程の学生でも一度は手に取るような定番「岩波新書」本のなかに並べてみたい本です。たしか今年の2月のこのエントリーを書いた時に棚卸しして、それからちょっと積んでて読み終えたという感じです。確かに以前読んだはずなんですが…まったく違った読後感です。面白いもんすねえ。

おびただしい量の言語学の術語が並ぶ前半は確かに面食らいます。これは「系統樹モデル」への批判のために用意した論を展開するためにはどうしても不可欠なので、ここで挫けてしまっては元も子もありません。訳者の大角翠さんのあとがきでも、術語の翻訳には頭を悩ました様子が分かります。だから分からなくてもここは我慢して…。一山越えると、ディクソン自らの提唱する「断続平衡モデル」についての説明があり、それから現在の言語学に物申すというテイになり、最後には万国の労働者ならぬ、「万国の言語学者よ起ち上がれ!」的なアジテーションでシメとなります。特に中盤から終盤にかけてはとても大事な話で、これが7000ナンボの学術書ではなくて新書というのも、さもありなんと腑に落ちます。

系統樹モデル」ってのは意外に強力で、いわゆる印欧語の話者ならば直感的にひらめくモデルではないかと思います。比較言語学とか以前に、例えば英語とドイツ語って似てるよねって含意がなければ、ドイツ語混じりの台詞を字幕なしで映画に登場させることもないんじゃないかと想像するわけですよ。でもうこれはお約束なんですが、欧州の連中はそれを普遍的な事象に当てはめようとするわけです。日本に住む者からしたら「んなアホな」と言うことを平気でやらかして、しかも強力である故にそれに乗っかっちゃう日本語の言語学者もいたことでしょう。いつだったか日本語と韓国語が同じ起源だとかいう書籍もありました。本書にもありますが、結局のところ「日本語と韓国語の関係は分からない」というよりも、「起源は一緒だった!」って語ったほうがネタになりやすい、学者としても名を為しやすい、しかしその手の論はまず間違いなくおざなりな比較である、とディクソン教授は断言します。

南北アメリカの言語と言う時に、チカーノのスパングリッシュでもルイジアナクレオールフレンチでもなく、まあ普通に注釈なしに先住民の言語のことを言ってるのはやっぱ言語学者だなあ、違うなあと思いましたね。なにしろ、固有の言語を話す固有の集団の向こうに見ている時間の単位が、最低でも2000年の単位なんですよね。ディクソン教授はここ2000年が重大な「中断期」であったとしてます。だから、例えばアメリカ合衆国の歴史なんてのは先住民の生き残った言語にしてみたら屁みたいなもんで、アルカトラズ島占拠事件などの政治問題と言語の研究は一線を画するのでしょう。言語はもちろん民族的自決権と密接に関わってくるのですが、それが表面化してきたのもせいぜいここ2〜3世代での話であり、それだけ言語というものは「平衡期」には揺るがないものだと。しかし変わるとき(つまり中断期ですが)は、それこそ2〜3世代ですべてがあっと言う間に変わるものだと。

そしてまた、現代の問題は「絶滅危機にある言語」がまだ多数あると。お前ら言語学者だったらこれら消えかかってる言語を一刻も早く記述して博士論文を書きやがれ。基本的な言語研究の方法をマスターしてとっとと現地でフィールドワークしやがれ。現に消えかかっている言語を復活させたり話者を増やしたりするのは不可能だとしても、あるうちに記述しないのは学者の怠慢だぞと。このあたり、内輪の言語学会に向けての強烈なアジなんですが、しかし読み手としては非常に重要な意味を別に感じます。「絶滅危機にある○○」があるならそれは救ったりいな、と直感的には思うんですが、行動しなければどうもならんわけです。この考えに人間が至ったのもせいぜい20世紀後半からですからねえ。日本にしても、アイヌや南西諸島への影響を考えれば、やはり日本のルーツそのものが消滅してしまうのを黙って見ているのはやりきれないところです。

ただひとつ問題のあるのは、ウチナーグチをイメージしていただくと分かりいいんですが、ウチナーグチを話すコミュニティがあっても(もうありませんけど)そこで若者が就職できるのか、もっと暮らしをよくするには優勢言語を学ぶべきだろう、英語とかだったら就職にも勉学にも有利でいいんじゃないの、という人の動きは誰にも止められないでしょう。それは避けられないのだが、と前置きしてディクソン教授も言っております。「西洋と東洋」だとか、ドメスティックな歴史認識を問題にしてしまう日本では、なかなかこういう発想って思いつかないんですよね。南アメリカの、アフリカの、少数民族の消滅しかかった言語を誰が記述するのか。「私たち(西欧人)しかいないでしょう!」と思えば欺瞞に見えるでしょうかね。ただ欺瞞だのなんだのは置いといて、という火急の事態に現在あることは間違いがないようです。はやくはやく!なんとかして!

これはおまけの妄想なんですが、ディクソン教授のアジがあまりにもかっこ良いので、言語学の「ポスドクという名の奴隷」は一体どんなことをしているのだろう、とふと気になってしまいました。まったく研究されていないフィールドに出て言語を採集していくことの興奮を、若きディクソン教授は味わえたのだろうと思いますが…現代だとどうなんでしょうね。