今起こっているイギリスの暴動について考えた

イムリー過ぎてなんとも気持ちが悪いのですが、昨日エントリーに挙げた『コミュニティ イングランドのある町の生活』という社会学の本には、実はハダズフィールドでの暴動についての章が立てられておりました。今回のイングランドでの暴動の端緒と非常に似通っていると思いました。

著者の意図によるものか、この暴動には日付が記されていません。この本の記述は1960年代後半、まだパンクロックがない頃の話です。

発端はある土曜日の夜十時半、繁華街のヴェン・ストリートで一人の若者が車に轢かれるところから始まります。「俺らの仲間を轢いたじゃないか」と言って十秒もしないうちに4〜5人の16歳ぐらいの若者が車に集まり、そのうち車は四十人もの人に取り囲まれました。先の方で倒れている若者を救急車に乗せた警察官二人は、ストリートをつかつかと歩いてきて、一番口やかましく騒いでいた若者の一人の襟首をつかんで引っ張っていき、振り向きざまに若者は警官の一人のあごをとらえました。警官は殴り返しましたが、若者たちがわっと押し寄せて、その数は500人に膨れ上がりました。

警官が三々五々、あたふたと到着した。群集は彼らを野次った。彼らが群集を追い散らそうとしていると、通りのあちこちで事件が起こった。警官ボトムリーは23歳の若者を「移動」させようとした。「おれを止めることはできんぞ、ポリ公!お前らは虫けらだ。お前らにどんなことができるか見せてもらおうじゃないか」彼は逮捕された。(p207)

通りのあちこちで上記のようなことが起こりました。群集は千人にも膨れ上がり、警官は群集を追い散らし、しかし「あちらこちらで、かつ、しぶとい反抗も残して、暴動は終わっていった。」とあります。

月曜日になって、十人の青年が裁判所で判決を受けた。彼らはほとんどが十代後半の見習いであった。ハダズフィールド警察部長は注意深く演説した。彼の言うのに、それはどんな意味でも人種的暴動ではなく、また、酒の上での喧嘩でもない。逮捕された者は誰一人、「何らの影響も受けていない」「この事件の根拠は提示しえない。群衆はただ気が狂っただけである」(p208-209)

ところが他の人は、根拠が示し得ると考えていました。神父は人種戦争の始まりではないかと懸念を表明し、労働党の市会議員は「市における巨大な暴力の波の始まりにすぎない」と感じました。翌日、ハダズフィールド自由教会協議会は「労働者階級における飲酒派対禁酒派の闘い」の一部分としてみました。一日あとの『ヨークシャーポスト』紙では「原子爆弾への恐怖が問題の根拠ではないか」と社説で示唆しました。大衆新聞各紙はこれらの諸説を無視しましたが、見出しに大きく『その日、町は狂った』と書きたてました。

次の週の土曜日、警察は警戒措置をとりました。十時半が過ぎると(十時半というのは映画館やパブが閉まる時刻で群集が通りにわっと出てくる)、500人以上の群集と、さらに新聞記者で、たちまち膨れ上がりました。「ポリ公なんかに振り回されるな、虫けらだ」「ポリ公どもに動かされるな」という野次や、女の子の悲鳴、警官が移動しない女の子を押さえ込む、フラッシュが光る、若者同士の喧嘩が始まる……。月曜日の法廷での警察の言い分は、群集は、ただ「何が起こるか見たがっている」だけだというものでした。新聞は土曜夜の騒動と、月曜朝の法廷の模様を、今度は写真入りで『少女が群集を煽動した』『暴動の町の街頭戦』と書き立てました。同様のことが、次の土曜日、そしてその次の土曜日にも起こり、暴動は鎮静化された…と、こんな感じの一連の報告があります。

著者は、この暴動の一部始終の報告の後に、さすがは社会学者(!)、「暴動の原因は何であったか」という見出しで考察してます。その辺りからいくつか抜粋しましょう。

最初の暴動の背後のエネルギーは、労働者階級の警察に対する表面下の憎悪であった。そして、このことは驚くべきことでもないし、今更のことでもない。警察は社会全体に奉仕するものとして存在しているのだが、社会を牛耳っている中産階級の手先であることが実に多い。(p215)

この例として、「賭博法」ができた時には、「私服の警官がパブの隅に座って、ドミノのテーブルに硬貨が現れるのを待っている」ような事態が生み出されました。中産階級は警察から援助を期待しますけれども、労働者階級はトラブルを予感する、とも言います。

ところが、反警察感情はつねに表面下に流れており、土曜日の夜の暴力というかたちで実にしばしば爆発しているものであるにもかかわらず、まさにそれをこのようなものとして見ることから中産階級をさまたげ遮断している、さまざまな態度と価値の壁というものが存在している。警察部長が「群集はただ気が狂っただけである」というとき、彼は逃げ口上をいっているのではなく、彼の真実を語っているのである。(p217)

これは、「ハダズフィールドの中産階級は、この労働者階級の暴動が一体、何なのか、まったく理解していなかった(p218)」ことを表しているといいます。

もうひとつ、これはちょっと時代を感じますけれども、マスメディアを槍玉に挙げています。

しかし、その(マスメディアの)脱階級性とは奇妙なものである。マスメディアは、「大衆的」であればあるほど、労働者階級についてのみずからの表現を、かつての見えない壁とまったく変わらぬぐらい恐るべきイメージや態度の垣根で、囲んでしまうのである。この新たな障壁は、新聞的発想の初段階に露呈される。

有色人種なんて一人もいなかったのに人種問題だと書いたり、原子爆弾への恐怖などと言ってみたりするっていう発想のことです。

ところが、暴動は、おきまりのニュースの枠組になじまないけれども、あいかわらず、変な意味合いでは「新しい」事態であり続けるのである。第二週からは、暴動は、舞台の上で、フラッシュをたくカメラマン陣の前で、演じられる。報道者たちの存在がニュースをつくるのである。

ここ、重要ですよね。これから数日間、BBCほかのニュースを注意して見てみましょう。「テレビカメラが現場にいなければ、そもそもニュースになってないんじゃないか」と考えながら。

私はこの報告と考察を、信じたい気分でいます。イングランドにおける暴動というのはおそらく「儀式」であり、来月あたりには鎮静化しているだろうと。そして結局、誰も本当は何が起こったのか分からない、という事態になっているだろうと、そんな気がしておりますが、いかがでしょう。