『八月の光』を読みました

ウィリアム・フォークナーの『八月の光』を読みました〜。

八月の光 (新潮文庫)
八月の光 (新潮文庫)
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フォークナー
新潮社
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どうも最近DVDばっか観てたテイのエントリーが一週間ほど続きましたが、実はこの長尺本をずっとウンウン唸りながら読んでたのでした。かなり文章が難しいので、集中力を要しましたねーペースが極端にスローダウン、まったく読み進みませんでした。

読んでみてどうだったというと、それほど爽快ではありません。分からないことが多過ぎる。その分からなさ加減を説明しますと、どっぷりとアメリカ南部に浸らないことには、小説の風景であったり歴史であったり、時間や心象の感覚がとてもじゃないけどついていけなくなることがままあるのです。問題は、それを日本語で読んでいるっていうことなんですね。20世紀初頭のアメリカ南部と、東京の地下鉄で読書する自分との間に、やはりどうしても大きな障壁が出来てしまう。外国小説を日本語訳で読む場合にはどうしてもこの翻訳による壁の問題が出てくるのでしょう、しかし読者はその壁を乗り越えずともなんとか近寄ろうという態度で読むわけで、さらに翻訳者なら言わずもがなで、壁をどうにか乗り越えてやっと日本語訳の出版にこぎつけるものだろうと思います。

だから日本語訳が読みにくいという感想はこの際言わないでおこうと思うんです。私はほとんど村上春樹を読んでないんで、このアメリカ文学の翻訳の齟齬に馴れてないような気がします。いや、本当に、アメリカ文学、特にアメリカ南部を舞台にした文学というのは、ポピュラーな割にはそれ相応の知識がないと読みこなせないんじゃないかって気がするんですよね、特にこういうフォークナーのような大作は。

そういう風にぐだぐだと言わずにはっきり「難しくてまったく面白くなかったです。なんでこんなんが名作なのかさっぱり分かりません」と書ければいいんですけど、実際は面白かったんですよね。だから困るっていう。それも物語の細部というよりは、骨格部分に近い構成と首尾が、うまくできてるなあっていう。この物語が上手だということを知らせるためだけに、なんとか「超訳」本でも出したらいいのになって思いました。この分かりにくさのままでは、ちょっともったいないと思います。そうじゃなければ、この八月の光を知るためだけになにか解説本を併読する形式の方がいいと思います。源氏物語読むのだって解説がいるんだし。

そんで内容なんですけど、なんといってもジョー・クリスマスというキャラクターを創造した時点ですでに一本取ってます。私は中上健次の創造した「秋幸」をずっと想像していました(だから読みにくかったかも)。アメリカ南部というのは実に小説的な場で、リーナという妊婦が馬車に揺られてのんびり移動するド田舎の農道の傍らに、人間の存在を問う素材がごろっと転がっているような土地なのだと強く感じました。しかしこれが文芸だっつーことですよね、例えばいま観光旅行でアメリカ南部に行って、観たまま聞いたままで同じような理解はまず無理なんだろうな、とも感じます。では、フォークナーによる文の芸によってこの場所が新たに創造されたものだとしたら、これはアメリカ南部に限らず、人間の住む場所すべてが小説的な場にも変えられるし、この舞台がアメリカ南部である必要はまったくなかったということになります。それだけの問いを想起させるほどに、喉のかなり深いところにハリを引っ掛けてきます。

お話っていうもんはなんでもいいんですが、「昨日飲んだけど記憶がなかった」でも「妻の出産日に飛行機に乗れなくなって車で向かうハメになった」でも成立はします。しかし『八月の光』は、いわばそういう「お話」の群れが、オオカミのようになっていっぺんに向かってくるという印象です。その嵐のように向かってくる「お話たち」の向こうに、デーンとアメリカ南部の風景とユルい時間感覚が広がっているという手口に、存分にやられちゃいました。

ただ思ったことがひとつあります。映画『カポーティ』で新作のプロモーションに朗読会をやるシーンがありましたが、小説というもんが読み聞かせるのに耐え得る散文であったから、ああいった朗読会なんてのが成立したんだろうと思ったんですね。そうなってくると、日本語訳で読んでるのは割に合わないんじゃないかって気がしてきます。かといって日本語訳でなければ読めないし…大きなジレンマです。逐語訳だからといって、黒人訛りを和訳でも訛りにする必要があるのかどうか。むしろ黒人訛りの表記が東京弁で他を大阪弁にしたらどうなるのか。ハイタワー牧師の一人称が「わし」であるのは、星野仙一と関係あるのか。

まあいっか、これ長編でしたからね…正直しんどかったです。