『ヴェネツィアの宿』を読みました

須賀敦子さんの『ヴェネツィアの宿』を読みました〜。

ヴェネツィアの宿 (文春文庫)
須賀 敦子
文藝春秋
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いやあ…傑作です。本当に愛おしい文章です。これはもう、かなりやられました。ぶっ飛ばされましたよ。これはスゴ過ぎる。

私は以前に須賀さんの経歴を勝手にグダグダ推測したんですが、まさにその須賀さんの経歴、パーソナリティを作ることになった端緒がこの本にほとんどすべて書かれていました。

感激したのは、なにもこの本で須賀さんご本人の自分史を見ることができたからではありません。もちろん須賀さんご本人のこととしても一応は読めるんですが、それよりも、ご自身の歴史を文章に書いたときの、作家と「私」との距離感が巧みで、「あつこ=私」というキャラクターをこのように書ける作家は、今までどの「私小説」でも見たことがありません。「私」が主人公の小説っていうのは、たいてい小説的な「私」になってしまうものなんですけど、それがまったく鼻につかないってことだけでも、ホントそれだけでも充分すぎるほどに素晴らしいです。これは相当時間がかかった作品ではないかと思います。これだけの自身を表現するのに、多くの葛藤と推敲があったんだろうと想像します。私小説としての、文章表現の極みと断じてもよろしいかと思います。

少女期の私、壮年期の私、現在の私という、おおむね三つの私が(この作品を仮に映画化するなら、女優が三人必要でしょう)、時間軸に沿うことなく、自由に行き来する構成がよくって、これは一体どうなってるんだろう、ちょっと野暮かとは思いますが、12の章ごとに以下にメモしてみました。

    1. ヴェネツィアの宿/現在の私がヴェネツィアで不意にオペラに出会い、幼年期に「ベネチア」の話をしていた父と、二十歳の時の入院した父の記憶。
    2. 夏のおわり/昭和28年に亡くなった叔母の話で、戦前に疎開していた頃の私との思い出。
    3. 寄宿学校/戦後の東京と寄宿学校に通っていた私の思い出から、一転して現在の私が見た修道女の墓の風景へ。
    4. カラが咲く庭/放送局での仕事を辞めて1958年に奨学金でローマに行き、私は新しい学生寮に引っ越す。ローマで出会った韓国人やベトナム人の留学生の思い出。
    5. 夜半のうた声/ 一転して日本。「ヴェネツィアの宿」の章の続きで、父母の不和にまつわる話。この頃の私は大学院生。
    6. 大聖堂まで/1971年にイタリアに住む私は日本帰国の前にフランスへ行く。そこで初めての留学のこと、1953年のパリの生活を思い出す。パリの学生の熱気。
    7. レーニ街の家/東京に帰って15年、とあるから現在の私に近い。日本からフィレンツェに行ったら、ミラノに住む古い友人に遭遇する。
    8. 白い方丈/一転して舞台は京都(すごい!)。1960年代の半ば頃、ミラノにいた私は、京都在住の竹野夫人に手紙をもらう。妙な出会い。
    9. カティアが歩いた道/フランス留学時代のルームメイトの話。最後には、現在の私が、老齢になったルームメイトと出会って市ヶ谷に桜を見に行く。
    10. 旅のむこう/結婚して夫とともに日本にきて九州に新婚旅行。少女期の思い出を挟む。
    11. アスフォデロの野をわたって/イタリアでの新婚時代。友人と夫の死まで。
    12. オリエント・エクスプレス/1959年のイギリス旅行と父親の思い出。続いて1970年、父親の危篤で、帰国に際しての話。

こうやって書き起こしてみただけでも、鳥肌の立つような、見事なバランス感覚だと思いました。履歴書に書くみたいに、人の一生は年表になるかもしれません。でも人の記憶や思い出は、必ずしも時間軸に沿わずに混濁して、断片化するもんです。だからこういった断章形式になることにはなにも不思議ではない、と考えたとしましょう。しかしここには、必ず作者の意図や感覚が含まれるはずなんです。ぶっちゃけるとこれは、須賀さんのスキルです。表現の技術ですよこれは。なにしろこれだけの人生を、しかも各章はなんとも読みいい長さで、まとめられているというのも、偶然ではなくて、完全に意図的であり、卓越した表現技術です。どんだけ讃えても足りませんねえ、ホント驚きました。

須賀さんがこれを書いたのは、64歳の時です。デビューが60歳を超えてから、ってのは有名な話ですけど、そこまで待たなければ、この作品は書けなかったのかもしれません。長く生きていると、これはみんな一緒だと思うんですが、長く生きていると、それだけ周りの人が死んでいく経験を重ねるわけですよ。死なんて怖いものをずっと避けて生きていたい、そう思っても無理なんですよね。長生きすればするほど、自分と関わった人々の老いや死を目の当たりにする現実、宿命、これはなんなんだろう、とか問うてみても何にも変わるもんでもないんですが、文学の永遠のテーマであるっつーわけですね。

うーん私もまだまだっすねーもっと文学を読まないといけませんなあ。って気になりました。