『残された山靴』を読みました

佐瀬稔さんの遺稿集『残された山靴』を読みました〜。

残された山靴 (ヤマケイ文庫)
佐瀬稔
山と渓谷社
売り上げランキング: 70130

アルピニストに関する本が好きだった時期があります。特に佐瀬稔さんの山岳に関する著作で、長谷川恒男、森田勝、山田昇という冒険家を知りました。

登山ほど西洋の近代を象徴する行為はないでしょう。前近代では純粋に山に登るだけという行為なんて、変人しかやらなかったのではないでしょうか。そういう意識があったから、世界各国の代表チームが競って未踏峰へと向かっていた時代を敏感に察知して、日本もそのレースに名乗りを挙げ、明治の終わりにエリート連中が日本山岳会を作ったというわけです。佐瀬稔さんの興味対象はそちらのエリート集団よりも、戦後の団塊の世代らがエリート集団に対抗して組織された第2次RCCの登撃が中心になるようです。常に競争にさらされる宿命にあった団塊の世代から著名なアルピニストが輩出されたのは、時代の必然でもあった…というお話がまずベースにあります。こういった本を読んでいると、肉体労働のアルバイトで資金を貯めてせっせと山登りに行く人たちの取り憑かれ方があまりにも半端なくて、自分の普段の暮らしがこんなにだらしなくてのんびりしたものでいいわけがない、という焦りに似た気持ちがわき起こるんですねー。

そしてこの遺稿集ですけれども、佐瀬稔さんも書き手として焦る気持ちを文字にしていたのではないでしょうかね、山に魅入った登山家たちは、最期には当然のように山でバタバタ死んでいきます。にしても、いろんな人の話を読んでいると、80年代以降冒険家の生き様も登山の環境も変わってきてるのは確かで、なにか佐瀬稔さんの団塊世代の論理が通用しないというか、「なぜ山に登るのか」という理由がずいぶん一筋縄ではいかなくなってきているのを感じます。例えば未踏のウルタル2峰をめぐる駆け引きなどは、真実はもはや純粋な冒険家の夢を超えて、スポンサーやマスコミの絡む政治力と功名心のドラマになっちゃってる感じがして、登山が好きなだけの人がどうしてそんな中に身を置かざるを得なくなるのか、というテーマで考えるには、ちょっとこの文章では足りなくなってきちゃうなと感じました。うまく言えませんけど。

最終章の闘病記みたいなのは勘弁して欲しかった。ご遺族の方には申し訳ないんですけれども、スポーツライターアルピニストを比べたなら、そりゃどうしても俗物っぽい印象が多く占めるわけです。そこを見てどうのっていうわけではないんですけれども、遺稿集とうたったからには遺稿で貫いて欲しかったです。巻頭の江夏豊(!)の寄稿からしてちょっとアレって思いましたけど、そういうところ、読む方も敏感なんですよね。