『論文捏造』を読みました

村松秀さんの『論文捏造』を読みました〜。

論文捏造 (中公新書ラクレ)
村松 秀
中央公論新社
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中公新書ラクレ」なんて初めて読んだ気がします。個人的には既刊のリストを見てもあんまりそそられないのですが、ビジネスマン向けのタイトルが多いからでしょうかねえ。そんななかで、このタイトルに惹かれて本書を手にしました。

2002年5月に発覚したヤン・ヘンドリック・シェーンの論文捏造事件が、ま〜あとにかく物理学の学界をはじめ大騒ぎとなりまして、でこの事件を一年がかりで取材した番組をNHKが制作しまして、BSで2004年に放送しました。著者の村松さんはこの番組のディレクターであり、この番組がまたいろんなテレビ界の賞を受賞しておりまして、そんで本としてまとまって初版が出たのは2006年。今となっては結構古い話になっちゃってます。

編集部注として「本書は番組と同様の報道目的で書き下ろされたものです」と添え書きされている通り、よくも悪くもNHK的なお堅い文章でした。テレビマン的な私論を挟むでもなく、社会の公器としてのNHKの職員の本分を忘れていないスタンスは、ま〜あどうも調子狂っちゃう部分もありました。「なぜ捏造(という悪いこと)は起こったのか」という問題提起は寸分もぶれず、張本人のシェーンにも多少の憐れみを見せつつもしかし許されるものではないという調子です。これが同じテレビマンでも森達也さんだったら、まず最初からシェーンへの同情から始まって取材の過程で「テレビマンとしての私」がもたげてきて、「このまま取材を続けることに意味があるのか」とか自問しちゃったりしてくるパターンでしょうか。

それから、「なぜ捏造はなくならないのか」との問いには、どうしても「なくなるわけないじゃん」と直感で思ってしまうんですよね。福岡伸一さんが『世界は分けてもわからない』の中で同じような実験データ捏造の話をしてましたが、その首謀者であるスペクターを、「治すすべのない病(インクラビリ)」と喩えています。もちろんこの言葉は、須賀さんの小説「ザッテレの河岸で」からの引用ですけれども、その喩えに至るまでには、福岡さんはポスドクや研究員の奴隷的な生活などを描写しつつ、意図的にスペクターの捏造の動機を読み手に自然に理解させているわけです。

福岡さんも村松さんも、捏造者の口から直接なにかを聞いたわけではありませんが、両者にとってその動機はすでに自明のものだったはずです。プロフィール見たら村松さんは東大工学部出身ですからねえ。しかし、両者の捏造についての表現は分かれたわけですよね。ここに文学の意味が見えたなと思いました。文学や創作芸術においては、科学者は、というより人間は、捏造する欲望から逃れられない、そしてその逃れられなさについて描かなければならない、のだなあと、両者を比較してしみじみ思いました。

あれれ、福岡伸一さんって文学でいいんですよね、多分。