『トリエステの坂道』を読みました

須賀敦子さんの『トリエステの坂道』を読みました〜。

トリエステの坂道 (新潮文庫)
須賀 敦子
新潮社
売り上げランキング: 63582

本書は『コルシア書店の仲間たち』と『ヴェネツィアの宿』と並べてみたほうが味わえるものだろうな、と思いました。もっとも須賀さんの読者は読まずにはいられないでしょうから、どのみち並べて読むことになる本でしょう。

『コルシア〜』は「私の世界」について、『ヴェネツィアの宿』は「私と世界」について、そして本書はヴェネツィアとは真逆の、「世界と私」についてを書いた作品だと、ちょっと今から言ってみようかと思います。

須賀さんにとってのコルシア書店は、いつでも人格の中心に据え置かれている存在だと思うんですね。思い出というよりももっと強い、「人生そのもの」だったのがコルシア書店でしょう。ポール・ヘイマンにとってのECWということ、須賀さんの世界そのものです。『ヴェネツィアの宿』では、幼少の頃から現在までの「私」が、当時も今も「世界そのもの」であったヨーロッパ世界にどうやってコミットしてきたか、が描かれているものと思いました。若き日の人生には夢も希望も残されており、世界にコミットしていく過程は情熱も青春のエネルギーも必要です。

本書『トリエステの坂道』は逆に、世界が「私」をオミットする、除外していく過程が描かれていると感じました。この場合具体的には親族との死別なんですが、そこだけとればネガティブで、暗い細い道を歩いていくようなお話になるんですよね。で、そういうお話ってのは、日本の私小説にもフォークソングにも腐るほどあります。日本人って暗いのが好きですからねー。ところが須賀さんは、その暗さを巧みに避けており、不幸だの不運だのを自分の中に受け入れるよりも、自分の隣には、常にトリエステの坂道の高い塀の向こう側にあるような「世界」が横たわっているんです。日本人の嫁さんという立場で、イタリア人の旦那の親族家族と付き合う場合の、自らが感じる疎外感に重きを置くのではなくて、旦那の親族家族の世界と日本人嫁の私を、常に等間隔で距離を保って描いていることに気がついたとき、もうホント須賀さんは素晴らしい文筆家だなと感じました。

誰でもそうなんですけど、親族全員のことをいろいろ掘ったり探ったりしたら、不幸な話や不運な話は出てくるもんです。同様に楽しくて面白い話だってそこそこあるもんです。須賀さんがこの作品を書くのに、この不幸な方のセンをなぜ選んだか。間違いなくウンベルト・サバに答えがあるんでしょう。本書は、次はウンベルト・サバを読んでくださいね、読め、と日本人嫁が言っている気がします。嫁だけに。