『私説 国定忠治』を読みました

笹沢左保さんの『私説 国定忠治』を読みました〜。

私の持論なんですが、時代小説とか歴史小説というものは、まともに読まずに、ネタとして読む姿勢が肝要なのです。

例えば本書は1973年に初版なんですけれども、「江戸時代」についての認識が、この40年間近くでかなり異なってきているといわざるを得ません。「なんとなく江戸時代ならそれでいい」ということで収まっていた時代の大衆小説を、厳密な史実と引き合わせてどうのこうのと言うのは野暮に違いありませんが、しかし21世紀の現代の読者には、なかなか嘘八百というのは通じないものではないかなという気がします。というか、嘘八百な時代物をやり尽くして現在に至る、という感じでしょう。

笹沢左保さんの作るお話は好きなんですが、なにぶん昔の作家さんなので、現代の歴史モノ、特に飯島和一さんあたりと比べたら、なにもかも違います。笹沢さんの文章はもうどうしようもなく嘘っぽく見えてしまうんですよね。嘘か真実かを問うことは難しいとしても、読み手が真実らしさを求めてしまうのはどうにも悪い癖だよなーと感じます。そこを読むのではなくて、むしろ嘘らしさのほうを読むべきだろう、と思っています。

では笹沢さんの嘘らしさとは何か。本当はまったくのフィクションの方が体感できるんでしょうけれども、本書のように、国定忠治の史実の空白を、作家としての想像力を存分に発揮して埋めた手口をたどれる本も貴重です。八州廻りとか上州への興味はきっとこの国定忠治から始まったのでしょうねえ。

結局のところ、国定忠治の親分ってのは、語り伝えられていることがすべてであって欲しいという読み手の願望が、彼の全体像を作っているのでしょう。落語や講談で聞ける親分の感じとほとんど変わらずにまとめているので、ひとまず安心しました。実は倒幕の志士と絡んでいたとか、外国に出るのを夢見ていたとか、まあこれはほんのりとした想像ですね。

ここでたとえば、「実は忠治の親分はホモだった!」なんてやるのもひとつの手だとは思いますけれども、そうやって思えるのも今だからでしょうね。今の作家さんならやっちゃうかもしれませんねえ。