子どもの涙 ある在日朝鮮人の読書遍歴

徐京植さんの『子どもの涙 ある在日朝鮮人の読書遍歴』を読みました〜。

『ディアスポラ紀行』という新書がかなりよかったので、その二杯目でした。子どもの頃の読書の遍歴っていうからには、当然徐京稙さんも本の虫だった幼少時代を過ごされており、読書の遍歴がそのまま自分史と重なり合うという自負があるんでしょう。そんなお披露目できるような遍歴なんてないもんですけどね。よく言えば自己分析、悪く言えば自己愛の塊、っていう類の文章になってしまいそうですが、今ハッと気が付いたんですが、在日朝鮮人という立場で書かれる文章ってのは、その自己の存在の表明に基づいていなければ意味がないとでも言うような文体にはなりがちです。姜尚中さんもそのようですね。逆に言えば、「自己表明をしている限りにおいて在日朝鮮人」ということになり、そうではない場合には文章においても存在そのものが遠く追いやられてしまうのが日本語の世界なのだなあと、そしてその日本語の海の中に自己表明としての異議を立てずにはいられないから、文章書いてらっしゃるんでしょう。

本書で出てくる本でふたつ気になったのは、まずなんといっても魯迅ですねえ。実にいい魯迅を読んでて、いいなあと思いました。魯迅、温めときます。もひとつはフランツ・ファノン。これもそのうち。「読むべき本」ですねこれも。

それにしても徐京稙さんは1951年生まれっていう感じがしますねえ。姜尚中さんも1950年生まれですからね。ずいぶん似たような60年代の状況が登場してきます。この世代の、この民族の選択肢としては、そんなに多くなかったのかどうなのか、まだまだ分かりかねるところがあります。日本語で書かれたものしか読んでないわけですからね、もうそれだけでも強いバイアスです。もうこれからは、タイトルにも入っている「在日」という単語に引きずられているようでは、読み手としても書き手としても面白くないんじゃないかなって思うんですよね。文庫の解説をしている石川逸子さんの文章があまりにも同情的なニュアンスを整えていたものですから、それだけで、どこか反発を覚えました。この本がそういう同情的なニュアンスでしか読まれないとするなら、面白くねえもんだなあと。在日文学全体についてそうですけれどもね、これは。