マシアス・ギリの失脚

池澤夏樹さんの『マシアス・ギリの失脚』を読みました〜。

マシアス・ギリの失脚 (新潮文庫)
池澤 夏樹
新潮社
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かなりの分量の長編小説ですが、大変面白く読めました。久しぶりに文学を読みましたという読後感です。

長旅のお供には最適です。お話の舞台が架空の南洋の島の共和国だからというだけではなく、お話で語られる主体が、世界の歴史というか世界システムの歴史の中を動きまわり、読む主体つまり私も同様に交通システムの中で動いているという設定(つまり旅ですね)で語られるのが、この本は一番お似合いじゃないかと思いました。

旅は、物語と同様に、始まりがあって終わりがある、リニアルなものです。結末は分からないとしても、結末があるということだけは分かるものでして。私は実は第二章あたりまで、この本のタイトルが「マシアス・ギリの憂鬱」だとばかり思っていたんですが、失脚なんですよねえ。ということは多少ネタバレしちゃってるんですが、物語ってのはそれでも問題ないってことを改めて思い出させるようなお話であり、それを支持するようなタイトルだったわけですよ。池澤さんは語り手として二段も三段も上の人なんだってことがこのタイトルからでも分かりました。

ええっと、まずはカップヌードルですね。カップヌードルが無性に食べたくなってきます。インスタントラーメンとその進化形のカップヌードルが、味とカルチャーにおいてどれほど革命的であったかを伝える描写は、実際に南の島で食べた体験によるものに違いありません。

カップヌードルに象徴される物質文化と、神事など伝統的な島の文化は、南の島を考えて語るうちに自然と対比されてくるものなんですが、その対比を包括した混沌の上に、現在の南太平洋諸島の政治と経済は成り立っているのだという現実を、スッと入れてくる文章の巧みさはお見事です。これは、南の島が大好きなんです、というだけでは無理な芸当ですね。それがマシアス・ギリ大統領個人の考えではないんですよということも分かるように、きちんと亡霊に世界システムの観点から語らせているところも妙味です。人も国も、それ単体では生きていける時代ではないことが、マシアス・ギリ本人の考えとして登場しますが、この作品の基底に流れるのはここであると思います。

作品内で、決してゴーギャンをディスっているわけではないんですが、南の島が単体で楽園として成立する条件はもはやないということだ、と私は受け止めました。ただそれは悲観論でもないし、広場に集まった人々の醸しだす楽観的な雰囲気に流されるわけでもなく、ロマン主義止揚しちゃってまでも、南の島はただそれとしてあるということしか我々は受け止められない、と言い切っちゃってる部分はこの作品にあります。

娼館の女主人とケッチ&ヨール、そしてハーパー12年、このあたりには何かお話の元があるんだろうなと感じましたが、いかんせん思い浮かびません。マシアス・ギリ本人が孤児であることから、血や地縁の問題はずいぶんと端折ったなという印象はありますが、それをグリグリと考えるのは池澤さんの仕事ではないでしょう。純粋にお酒と乗り物が好きな、愛のある作品になっていると思います。最後のほうでアジアの有名なバーを列挙する部分があるんですが、うわあすげえ、と思いましたよ。サンミゲルとバドワイザーならいくらでも入手できるってのは実際にそうなんでしょう。どうせ日本に馴染みのあるフィクションの島なら、キリンビールにつまみは切り干し大根やきゅうりの粕漬けが出てくるっていう設定でもいいのになーとは思いましたが、多分池澤さんは日本のビールは弱いと考えたんでしょうかね?

度々登場する「バス・レポート」については「鱒釣り」読んでいたのでニヤリとしました。大変アイデアに富んでいて、面白かったです。よかったよかった。