『主人公は僕だった』を観ました

今週のお題「人に薦めたい映画」・「今週のお題」が映画だったので、便乗してみますよ。

マーク・フォースター監督の『主人公は僕だった』を観ました〜。

私のこれまでの少ない鑑賞歴での、ホントの最高傑作と言ってもいいくらいです。生涯ランキングを更新しなければなりません。脳天から何か汁が出てくるような感じで観ながら、最後の方では涙腺も決壊し、まさに映画でしか味わえないカタルシスを堪能できました。真の映画とはこういう作品を呼ぶんですね。本当に素晴らしかった。ありがとうございました。

本作品のなにがそこまで思わせたかというと、う〜ん…難しい!

…別に「人は必ず死ぬ」という真理だとか運命だとかを、突き詰める必要はないんです、たかだかゲスな映画なんすからね。哲学やロシア文学シェイクスピアじゃないんだから、という話です。実際こういうお話は、その死ぬという運命に向き合う登場人物の、その時、その状況、その態度、その雰囲気、年齢や性別、なんかいろんなことがからみ合ってて、ひとつの答えは出せないんじゃないかなー、と思います。例えば『素敵な人生の終わり方』でのアダム・サンドラー、あるいは『50/50』でのジョゼフ・ゴードン=レヴィット、『マン・オン・ザ・ムーン』ジム・キャリー、みなそれぞれに死を目の前にした演技を魅せていて、「あ〜俺は死んじゃうんだ…」って演技は決して類型化できるもんじゃないと思うんですね。しかし一方で、死ぬ運命っていうテーマはあまりに普遍的過ぎるので、穿った見方をすれば演技は誰も彼も紋切り型だし、ベタだし、演出がちょっとでも寒いしょっぱいと感じたら、もうその時点で登場人物の感情に入り込むことはできなくなったりして。ある人は泣けたと言っても、別の人にとっては「?」だったり、まあ人それぞれ色々あるので、あんまり泣けた泣けた言っても通じないってのは分かった上でってことで。

しかしながら、いや〜、ウィル・フェレル。私にとっては名優過ぎて喉がつまりました。マギー・ギレンホールの自宅にあるギターでWreckless Ericの「Whole Wide World」を歌う時、文学教授のダスティン・ホフマンから「君は死ぬ」と告げられた時、作家のエマ・トンプソンに読んだ草稿を手渡した時…ま〜ホント絵になりますこの人。なるほどー、『アザーガイズ』でのテンションを抑えたキャラは、この作品から来てるんですなー。

絵になると言えばもちろん他の役者も凄まじいほどで、大きな丸窓ごしにベーカリーで仕事をするマギー・ギレンホール、プールで監視員をやるダスティン・ホフマン、雨の中河原で傘をさすクイーン・ラティファと濡れないようにタバコを吸うエマ・トンプソン。その他シカゴの市バスも、地下道の公衆電話も、ギターショップも、ロケ地は全部素晴らしい。シカゴに行きたくなります。

音楽だって、ウィル・フェレルが市バスで草稿を読むシーンのザ・ジャムの「That's Entertainment」、エンドクレジットではスプーンの「The Book I Write」という曲がとてもハマってて、どこから見てもゼロ年代のアメリカ映画です。エンドクレジットと言えば冒頭と最後の、MK12の制作した映像のかっこよさは、なんかこう最近のアメ映画の主流になってるセンスですね。

役者がいい、絵がいい、音楽イイ!、そしてお話自体もい〜んです。粗筋は特に書きませんけれども、作家役のエマ・トンプソンのナレーションの声もい〜んですね。そしてその内容が、作家の書いた文章というテイなのでエライ文学的で、物語の中にビシビシ入ってくるんですよねー。少なくとも、こないだ観た『ヤング≒アダルト』で、劇中の売れてない作家役のシャーリーズ・セロンがウダウダ文章を読んでいたヤツよりは内容が入ってきます。

こうやって書いてみていま気が付きましたが、感動作ってのは大概人の生き死ににまつわってるんじゃないか、という気がしてきました。ただやぱり当たり外れが大きいテーマだから、作る側からしたら両刃のナントカって感じかもしれませんね〜。