『村からみた日本史』を読みました

田中圭一さんの『村からみた日本史』を読みました〜。

村からみた日本史 (ちくま新書)
田中 圭一
筑摩書房
売り上げランキング: 322823

これほど興奮しながら読める本に出会うのも、今どきなかなかないです。なにしろ私は多感な中高生でもないし、中高年の仲間に入ってる年齢ですからねえ。本に「お前の考えは間違っとる!」と宣告されるのは、ケンシロウに「お前はもう死んでいる!」と言われるのと等しいですね。打ちのめされました、いい意味で。久々にパラダイムシフトを体験しました。

「江戸時代の百姓は貧しくねえぞ、全然」という話の本です。百姓は、想像以上に「稼ぎたいように稼げた」ということです。むしろ現在よりも自由に稼ぎまくったようです。田畑を耕すのはデフォ、後は何でもやって稼いでいたようです。金のない人はより稼ぎのいいところに出稼ぎ行ったり山菜採って売ったりと、副業に精を出します。下級役人よりは収入が高かったというデータも目から鱗でした。

ただ百姓にとっては正副関係なく、正副関係あると思っていたのは支配者側だけのようです。お前ら倹約して精一杯田畑耕せよ、と上から命令するんですが、その場はへえへえ答えておいて、やっぱり稼ぎのいいことで稼ぐ。そんだけ仕事があったんですなあ。土地を持たない無高でも食える百姓はいっぱいいたようです。

あと、「食うに困ったから一揆じゃねえぞ」って話もありました。これは知ってましたけど、義民伝説というのはこれはこれで気持ちの悪いものでして、一揆崇高論から離れるべきであるという本書の記述には首肯します。一揆には、当たりもあればスカもあったって気がしますよね。あんな腹の減る行動、なかなかできるもんじゃないですよ。

百姓は、もっと利で動いた人々なのでしょうなあ。「稼ぎたいように稼げた」ってことは、遊びたいようにも遊べたのだろうし、現代の私たちのやってる遊びは、たいてい昔の百姓もやってたような気がします。飲む打つ買うはもちろん、オシャレだってしてみたい、甘いものだって食べたい、旅行にも行きたい、そういうの一通りやってたんでしょう。大して変わりませんよということですね。

楢山節考のイメージが間違っていると断罪するのではなくて、あのイメージが明治以降、あるいは戦後に、どのようにして、なぜ作り上げられたのか。この点を考えると、これまでの日本人観や日本人論をひっくり返すほどの力はあるでしょう。例えば戦後政治ではよく「戦争の反省の上に立って」という言葉が使われますけど、いかにも常套句ですよね。戦争とはなにか、反省とはなにか、反省の上に立つとはなにか、まるでボンヤリしてます。政治家の言葉って大体こういうもんです。そしてこの繰り返しが為政者側の視点の歴史です。この「歴史」の連続から一度考えを脱すれば、現代の私たちとほとんど変わらない民衆の姿が見えてくるのですね。わくわくする話です。