『塩を食う女たち』を読みました

藤本和子さんの『塩を食う女たち―聞書・北米の黒人女性』を読みました〜。

はじめに言っちゃうとこの本、今は「水牛の本棚」というサイトで全文読めます。


読むのに本っ当に時間がかかりました。一連のリチャード・ブローディガンの著作を訳したことで名を挙げた藤本和子さんの日本語が問題なのではもちろんないんですが、とにかくこの方の興味の対象とか足を向ける対象というのは、アメリカのほとんど翻訳不可能な部分だったり言語化すらままならないような部分だったりするせいだと思うんです。これはきっと翻訳者としてハードルを高くしてるというのもあると思うんですが。第一、この本のモチーフとしてもっとも重要な作家であるトニ・ケイド・バンバーラにしてもAmazon.co.jpに一冊もありません。その辺がもうね、なんというか、フラストレーションたまりました。それから、公民権運動の全体像と個別の事件をすべて理解しておくのは必須条件ですね。『黒人差別とアメリカ公民権運動 ―名もなき人々の戦いの記録』という本がオススメです。

で、なんとか読了して振り返ってみると、結局これは「はじめに 生きのびることの意味」の章にすべてが書かれていたことに気がつきました。そこに著者の意図が説明されているし込められています。それだけ読めばよかったんや〜、と気がついたのも後の祭り。

これは、主にさまざまなアフリカンアメリカンの女性にインタビューしたものをまとめた本です。意欲的で素晴らしい本です。1979年頃にインタビューしたのだと思いますが、60年代公民権運動の記憶がまだ生のもの、自分たちの体験として残っていた当時のアフリカンアメリカンの女性たちの言葉を集めて、丹念に記述しようとした藤本さんの苦労がうかがえます。なによりも、単にアフリカ系としての話ではなく、アフリカ系の女性としての話に絞っていることで、公民権運動の別の側面が見えるだけではなく、運動がより具体性を帯びてくるのにびっくりします。その具体性というのは、歴史として、あるいは社会学的に理解するのではなくて、「文学的な」理解によって現れるものでしょう。でも文学的な理解については、読み手としてはこの女性たちの言葉の翻訳者である藤本さんに全面的に委ねなければならないわけで、そこに言語の何重もの壁があるゆえに難解過ぎるんです。読み終えるのに時間がかかった真の理由はこっちかも。

どうせなら、辞書引きながらでもToni Cade Bambaraを原書で読んだほうがいいかもしれないなとも思いましたが…うーん、もしかしたらアメリカ文学を漁るよりは、アメリカ音楽と直接つながったほうが居心地はいいんじゃないかなという気はします。ブルーズ(「ス」じゃなくてね)やアレサ・フランクリンニーナ・シモンズはもちろん、ジョニー・キャッシュにもロス・ロボスにもトビー・キースにも、歌の背後にだだっ広い荒野があるものだと思っています。しかしその荒野は、多分今となっては、抽象的集合的なものとしてしか扱えない非現実的な「アメリカ」なのですね。藤本さんがこの本の中の人々に聞いていた時代ですら、もうアメリカは遠くにある妄想の中にしかないような概念で、ただ差別や運動そのものが具体的であったために、やっとこさそこだけ理解できるという感じであったろうと想像します。

ただ、音楽に対してもそうであるように、やっぱりアメリカ文学にも、というか個別の芸術に、フードゥーだとかヴードゥーだとかを期待しちゃうんですね。またはアステカの王か、ナバホの儀式か。それが文学じゃなくて、バーニー・マックの話芸にあるのかもしれないんですが。ひとまずは藤本さんの文章をいろいろ読みつつ、とりあえすの結論でも見つけられたらいいなあと思います。