『ミシシッピ・バーニング』を観ました

アラン・パーカー監督の『ミシシッピ・バーニング』を観ました〜。

1988年公開の映画だったんですねー。1964年の公民権運動家3名の殺害事件をテーマにした作品です。いやいや、こんな真夜中に観る映画ではないですね…相当のエネルギーを消耗しました。まいったまいった。

公民権運動をテーマにした映画ってのは当然ながら重いというのは分かってたんです。これが実際にあった事件をもとにしたっていうことが、もうなんというか、ね。なんといったらいいんでしょうねこれ。必見の映画であることは言うまでもないです。

なにしろ燃えまくります。まさにタイトル通りです。家が燃えまくり、全員殺人者ではないかと思うほどに銃も頻繁に登場し、そうだもうオープニングが殺しから始まりますから、北野映画並みです。北野映画は「ありえねーw」と思いながら観ていられるんでしょうけど、これ実際にあった話なんだっつーからもう笑えない。

現在はアメリカもずいぶん変わったと思っているんですけど、それは私の見聞きする範囲だけなんで、南部のど田舎であれば、現在も続いているでしょう。事件として明らかになってない部分でも、なにやら白人と黒人の、過去の歴史を奥で噛み締めながら口には出さずにうまいことやっていこうとしている状況ってのは、少なからずあるんだろうなと予想します。多分ど田舎であればあるほど、モノの言いにくさってのを持っている世代はあるんじゃないでしょうか。これははっきりと教育の問題だから、子供たちがまず差別はありえん、間違っていると教えられているんでしょう。しかしだから問題ないじゃーん、と思うには気楽すぎる。差別という一点からみたら、この日本にもずいぶん昔はあって、今はもうない、いや今もありますよ、という現状と重ねてみれば自明です。自分がもし当時の南部の白人だったら、あるいは黒人だったら、と想像すると、大変なテーマです。憎しみが憎しみを産むアメリカの悪しき習慣は根が深いなと思いました。

人種差別の話に絞られてしまうのももったいないほどの良作でして、見どころとして私が一番推したいのはジーン・ハックマンです。最初は二人のFBI捜査官が、腐った田舎のなかで「こりゃどうにもならんわい」という、人種差別の根の深さに絶望に近い雰囲気を漂わせているんです。聞き込みのためにKKKの集まる飲み屋に顔を出した時に、「とっとと北部に帰れ」とひとりの白人に脅されるんですが、そこで初めて「なめんじゃねえぞ!」って凄むんですねー。もうこの辺りからジーン・ハックマンの時間です。そのくせ保安官補の奥さんと、なんかこう、乳繰り合う、いい雰囲気になったりもして、ちょいスケベな感じもあって好きです。口を割った奥さんが、旦那とその仲間に殴られて入院したって時も、あーこのキャラならぶち切れるんだろうなって思いました。そのキレたジーン・ハックマンを銃を突きつけて諭すウィレム・デフォー、彼の最大の見せ場です。

このシーンから怒濤の不法捜査が始まります。ジーン・ハックマンがFBIの中の仲間たちとつるんで、地元のKKK連中を「なりふりかまわず」捜査していくんです。もうその辺りが最高に怖い!かっこいい!「こわかっこいい」って感じ。あらゆる手段でKKKをヤクザ並みに追い込んでいくんですねー。

見終わってみると、なるほどこれはジーン・ハックマンの映画だったとも言えなくもない。黒人の登場人物に目立った俳優がいないからかもしれません。KKKの連中も演技者としてピリッと来るのはなかったかなあ。要するに、映画の中の台詞ではないですが、二人のFBI捜査官が南部をかき回しにきたっていう劇構造ですね。当然この配置は意図的なものなんでしょうね。てっきり、こういう映画で、黒人指導者であったりKKKの大物が、より大きな役柄のポジションを占めるべきものとばかり思ってました。『夜の大捜査線』でもそうなんですが、この手の映画において、当時の南部の白人がバカな差別者であるとする描写は仕方がないところかもしれません。