須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』読みました。

須賀さんは、昭和の日本の女性っていう感じがまるでしない、かなり進歩的なひとりのインテリの女性なんだなあと思いました。著者の昔懐かしい友人たちの思い出を、おそらく帰国した東京で思い出しながら、断片的にポツポツと語っていく構成が巧みというか気が利いていて、須賀さんの聡明さがにじみ出てます。イタリアの文学に親しんでいたからというよりも、昭和の戦後まもない頃に留学したという家柄の良さもあるよねっていう、それゆえに、逆にこの作品に登場する博愛主義的なブルジョアの女性の描写に客観性を保てたんじゃないかなと想像したりしました。

晩年に小説を書いたとはいえ、翻訳っていう仕事を常にしていたわけですから、やはり文章のプロです。以下松山巌さんの解説。

人は文章の修辞を学ぶことで、言葉を紡ぎ出せるのではない。どうしても語らなければならぬという思いが言葉を織り上げる。そうしてはじめて人は文章家となる。『コルシア書店の仲間たち』を読むとき、私たちはこの単純な事実に気づかされるだろう。

これ逆に言えば、こういうことを松山さんが書いてしまうのも、須賀さんの文章の修辞が際立って美しいからです。本当にいい文章! たとえばこんな感じの。

いずれにせよ、私のミラノには、まず、書店があって、それから街があった。その街の中心は、まぎれもなく、あの地上に置きわすれられた白いユリの花束をおもわせる、華麗な大聖堂だった。ふつう、上へ上へとのびていくゴシックの垂直線が、どういうものかこの建築には欠落していて、ある友人は、「立っているのにくたびれて、すわりこんでしまったゴシック」とこの大聖堂を形容して私を笑わせた。きらびやかではあるが、パリやシャルトルの大聖堂にみられる精神性からは、ほど遠い、饒舌なゴシック。

どんなミラノのガイドブックよりも、まずはこの本を片手に、いつかミラノに行きたいと思いました。ちょうどお正月のNHK-BSの街歩き番組では、やはり街歩きという趣旨にはイタリアのような街がぴったりと言わんばかりに、イタリアの街ばかり特集していました。須賀さんの記憶の中のミラノは、実際の現在のミラノとはかけ離れているかもしれないし、同じところもあるかもしれない。それをひとつずつ確かめて歩いたら楽しいかもなあと、というよりも、ガイドブックを持って旅に効率を求めるのは、もしかしたら旅の概念から離れているのかもしれない、とこの本を読んで思いました。

文春文庫の表紙の印象的な彫刻は、舟越桂さんの『言葉が降りてくる』っていう名の作品。これも心に残りました。

コルシア書店の仲間たち (文春文庫)
須賀 敦子
文藝春秋
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