『ナバホへの旅 たましいの風景』を読みました

河合隼雄さんの『ナバホへの旅 たましいの風景』を読みました〜。

ナバホへの旅 たましいの風景
河合 隼雄
朝日新聞社
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昨年12月から読み始めて、ゆっくり読み進めて、ようやく。この本はいろんな示唆を与えてくれました。

私は「並行読書好き」でして、『10冊一緒に読めよバカ!』とかいう感じの本が確かあったような気がしますけれども、最低でもその倍の20冊を一緒に読んでます。その最大の理由は「自分を訳分からなくするため」です。でお察しの通り、そういう読み方してると、「うわ、これは…あの本で読んだことに近い!」という事態がかなりの頻度で起こります。それが楽しいんですけど、その「事の起こり」が多い示唆的な本ほど優秀な本だと思ってまして、その点でこの本はとても優秀でした。いろいろ他の本に寄り道させられて、読了するのに一ヶ月近くかかった、というわけです。

内容はまさにタイトル通り、ナバホのことについて書かれた本なんですが、実にいろんなことを考えさせられます。本書のあとがきで河合隼雄さん本人も以下のように書いてます。

しかし、これはいわゆる「調査研究報告」でもないし、一般的な「旅行記」でもない。私は心理療法家として、多くの日本の悩める人たちにお会いしながら、そして自分自身のこととしても、日本人がこの現代をどう生きるのか、という課題を常に考えざるを得ない。それに取り組む上において、何らかのヒントを得られるのではないかという期待をもって、ナバホの人たちー特にメディスンマン(シャーマン)たちーにお会いし、その都度、いろいろと考えたことを、ここにまとめたものが本書である。

アメリカ先住民に興味がある人にとっては「読んでて当然」のファウンデーション本なんだってね〜。

いろいろ感想書きたいんですが、ちょっとだけメモしときます。

    • インターネットでつながっていると言われている世界は、人間の住むこの宇宙におけるほんの一部ですらないと。で、ナバホには恐らく「自然」「宗教」という概念がないらしいんですが、ネットでも、書物でも、そこから得られる情報は概念化された世界、つまりこれも宇宙の一部でしかないんだと。そんで概念を超えたところに知は存在できるのか、いやそんなもんねえだろどうよ?ってあたりから話を探してみたいというのがまずひとつ。
    • もうひとつは、「ヨーロッパの/白人の/キリスト教の/資本主義的な」という項は、批判にさらされるケースが多いわけです。たまたまナバホがアメリカ合衆国にいる集団であるから、「ナバホいいよね最高だよね」で成立するんですが、例えばイラクのロマ、ガシャルなら、ケルト民族、アイヌ、沖縄ではどうなのか。成立しちゃうんでしょうねきっと。でもそれは文脈上の罠なんじゃないかなっていう。要するに現在のナバホの問題は、世界で普遍的に起こっている政治的社会的問題なんでしょ、と考えながら読み進めていると、いつの間にか頭の中で「涙の道」だのカールトン将軍だのといった、アメリカ合衆国の歴史、つまり近代の歴史を勝手に想像しながら読んでしまう。これはきっと論理的な読者が陥る罠なんだろうな、と。もっと違う文脈、違う視点があるはずで、もっと他の本も読みましょうねって話です。
    • ホントはこういう書物としてではなくて、河合さんが現地でそうだったように、「よもやま話」としてポツリポツリとナバホの古老から言葉で聞くってのが大事なんだろうな、と思ったんです。メディスンマンが儀式でどういう道具を使ってどんな決まり事を守っているのかとかは、まあ〜とりあえず知ったこっちゃない(笑)というか、もっと実践的なもんでしょ、本で読んでもしょーもないっていうか*1。ですから、せっかくだから、インディアンの知恵とか世界観を論理的に解釈するのは避けたいなと。

最後の最後、河合さんの「スウェット・ロッジ」の描写で腑に落ちました。なるほどインディアンの儀式とかは理屈じゃねえんだな、ってことを感じ取ることができましたね〜。やっぱりそこで留めておくべきであって、また理屈の世界である日本の日常に戻りますハイすんません。

*1:なにげなく書いたんですけど、研究者は研究対象をどう記述するべきかというカルチュラルスタディーズ上の問題を孕んでいてなかなかオツですね