『ケルト巡り』を読みました

河合隼雄さんの『ケルト巡り』を読みました〜。

ケルト巡り
ケルト巡り
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河合 隼雄
NHK出版
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河合さんがNHKの撮影クルーと共にケルトに行った際の、覚え書きというような感じの本です。ケルトの伝説や風土といったものを濃く知るには別の本がいいかもしれません。ただ、ケルトと向き合うにあたっての考え方のツボはさすがに河合先生は分かっているので、ケルト事始めとして読むには最高の本だろうと思います。魔女と対談する河合さんがダラーっと座ってる写真、さすがです。

『ナバホ〜』からの引用も多いことを考えると、やはりナバホの方がファースト・インプレッションは強かったんでしょう。考えてみればケルトというのは既に消滅して久しいカルチャーである一方で、ナバホは現存する北米最大の先住民カルチャーですから、どうしても印象の差は出てくるはずです。例えば本書に登場するドルイドというケルトの宗教を、現代に再構成して復活させる運動をしている人が出てくるのですが、結局はドルイドについての文献が残っているわけでもなく、さまざまな宗教の知識をふまえて「自然と人間が共生する」といった思想を実践することを模索しているんです。もちろんこれは面白い試みだとは思うのですが、果たして意識的な実践が無意識にあるなにかを引き出せるのかどうかはちょっと疑問です。アメリカのサイエントロジーみたいな新宗教も本質的には同じなんじゃないの、と感じました。

ただ、キリスト教文明が到達する以前の人間のカルチャーが、色濃く残っているのがアイルランドであり、ケルトの神話であると言うことは確かです。「何か」があるんですよね、あそこには。だからこそドルイドに興味を持つ人々が世界中に何十万人もいるんでしょう。キリスト教がブリテン島に到達した頃には、すでに宗教というよりも多国籍企業の性質があったらしいですからねえ。その辺の、キリスト教との関連を、河合先生は丁寧に日本と比較したりしています。

すでに私も河合先生の本を何冊か読んでいるんで、いろいろとネタが被ってくるんですが、ヨハン・ホイジンハーとロジェ・カイヨワの引用は初めて見ました。オランダの歴史学者ホイジンハーは著書『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人の意)』で、「人間の文化の本質は遊びだ」と記しているそうで、遊ぶ動物というのは人間しかいないと、で遊ぶことで絶対者なり超越者なりに近づくのだと、こう言ってます。それを批判的に取り上げたのがフランスのロジェ・カイヨワで、まず儀式こそが絶対者に近づく唯一の方法であり、「儀式>仕事(日常)>遊び」という序列になっていると記しました。

河合先生はこれを引用し、現代社会は「儀式ー仕事ー遊び」は円環関係にあるのだと言います。どの地点からでも超越者に近づける、刀剣の職人や町工場でボーリング作る職人もそうだし、野球に稲尾様やバース様がいることなどが例として挙げられます。私は読んでて、一番始めに思い浮かべたのはプロ棋士です。谷川さんとの対談ではそんな「将棋の神様」の話なんてひとつもしてなかったんだけど、割愛されたのかもしれません。人間はこの円環の上で先人の猿真似をするくらいが関の山なんですが、それをバーッと突き抜ける芸術の存在についても言及されています。芸術が感動を起こす理由はその辺りにあるようですね。

それからまた読んでて、ケルトの伝説とキリスト教的な物語との違いの話で、ある昏さ(くらさ)を持っているという荒俣宏さんの言葉から、輪廻転生、変身の物語、渦巻き模様まで話が及ぶんですが、これ読んでてなぜか違うことを私は思い出しました。ついこの前に、飯嶋和一さんの『神無き月十番目の夜』を読んだ際、私は、平板な収束に向かう物語を喩えてパンクロックの歌詞みたいな、とエントリーに書いたんですが、そういえばポーグスの名曲"Dirty Old Town"は、昏い曲だと言うことを思い出したんですねー。アイルランドの風土、「ゲニウス・ロキ」(土地自体が魂や精神を持っているという考え方)は当然歌にも影響与えてると思ったりしてですね、河合さんの文章でまたもや突拍子もない示唆を受けたわけです。イメージを喚起させるのが上手なんでしょうかね。

ポーグス"Dirty Old Town"(名曲要注意)