『汝ふたたび故郷へ帰れず』を読みました

飯嶋和一さんの『汝ふたたび故郷へ帰れず』を読みました〜。

汝ふたたび故郷へ帰れず (小学館文庫)
飯嶋 和一
小学館
売り上げランキング: 178021

この作品の存在を初めて知ったのは、『雷電本紀』の文庫版のおまけの対談だったんですよねー。リゾート開発を当然のごとく断った島の話など、どうもその内容からトカラ列島についての現代もののお話らしいなっていう。最近自分でもやっと本の読み方がひとつ分かったような気がしてて、つまり事前情報というものをどれだけ遮断できるかどうかが鍵なんですね。いまや書評ブログもあふれてるし、自分勝手に読むためにはまず「知る前に読む」、これに尽きるなあと感じております。

んで、ですねえ。読んでみてびっくりしたのは、これボクシングのお話だったんすね!(予備知識なさすぎ…) 『雷電本紀』『黄金旅風』と読み進めて来たので意外であったのと同時に、なるほど飯嶋さんってのはこういう人間だったかと、スッと腑に落ちた瞬間でもありました。

では、どう腑に落ちたか。

表題作は1988年に文芸賞を受賞したというのですが、私は読後、1986年から1989年にかけて『漫画アクション』に連載された「迷走王ボーダー」をまず想起したんですよね。ボクシング、そしてソウルミュージック(ワカダンナのジムに流れていましたね)は、この漫画の原作者狩撫麻礼さんの、どの作品の世界観にも、常につきまとう符丁/記号なんです。これらを持ち出して描き出そうとしたのは、バブルに明け暮れていたサラリーマン社会に致命傷を与えることでした。この点で、両作品は奇妙に共通している、とまず真っ先に思ったんですねー。狩撫節を用いるなら、飯嶋和一さんは明らかに「こちら側」から書いている、というわけです。そんなことを思いついたら、表題作以外の『プロミスト・ランド』も『スピリチュアル・ペイン』も、どこか『ハード$ルーズ』や『湯けむりスナイパー』のエピソードに出て来てもおかしくないようなお話だと思ったんですけど、どうでしょう。

こういう思いが強くなったところで、また別の作品を読めば違う感慨を抱くのだろうし、あてにはなりません。まあ今の時点ではこうだよってことで、記念にここに書いてみたっていう次第ですわー。

ボクシングの描写は完全に信頼しちゃいました。すごいです。

「肉親」の問題、「女」の問題は、結構たくみに回避されてるんだなってのを発見しました。島に帰ったシーンで、そこに親は住んでなくて小倉にいるんだーなんでだろう、不思議でした。島に帰って老いた親に対面すれば、あるいは新田クンを心から支える女性が登場するならば、それぞれまた違う物語になっただろうなと思うんですね。ボクシングをまた再開する動機の阻害要件として親や女を見るか、それとも逆か。いずれにせよ要素を削ぎ落としたところで、新田クンはまた再開する気になった理由が真に迫ってくるってもんですなあ。新田の「走るな」は、鋳物師・真三郎の「踏め」にも似た、震える台詞でしたね。

あと脇を固める人々が本当にいいですね。前半老いぼれ犬と呼んでいた会長、蝶の好きなカットマンの長内さん、白鳥さん、ワカダンナ、大館さん。清水、島の人、千駄木の人々…。小説だから当たり前なんでしょうが、無駄な配役ってのはひとつもないですね。みんな魅力的です。考え抜かれてますよねえ。

ボクシング小説で『ファイティング寿限無』という立川談四楼さんの作品が好きなんですが、こちらはもっと穏やかにボクシングに臨んでおります(なんせ落語と両立ですから)。私自身はあまりボクシングに幻想を持っておりませんので。このくらいでもちょうどよく楽しめます。それからソウルミュージックも最近では幻想が保たれているわけでもなくなってきています。或る時期に、ボクシングやソウルミュージックに心魂を傾けた世代(多分私よりも10歳くらい上の)にとっては生きにくい、発言しにくい世の中に益々なってるんじゃないかなあという気がします。ちょうどこの主人公の新田クンのように、飯嶋和一さんが歴史小説に向かうのも、なにかこう、くだらない現代の中で作家業の矜持を保つ為に、ストイックに歴史に飛び込んで行くっていう、そんなイメージを抱きました。

しかしまあ、プロレスですらつまらなくなったし、この1980年代後半の地点から、ちっとも変わってませんなあ…。