『敵討』を読みました

吉村昭の『敵討』を読みました〜。

敵討 (新潮文庫)
敵討 (新潮文庫)
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吉村 昭
新潮社
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「敵討」と「最後の仇討ち」の二編が収められております。

サムライでも百姓でも、吉村さんの作品の人ってのはホントにあんまりくっちゃべらないんですよねえ。吉村史観というほど大げさではなくとも、昔の人ってのはそんなにベラベラしゃべらなかった、あるいはベラベラとしゃべることを是としていなかった、みたいな考えを吉村さん自身が持っていたのかもしれません。人物がしゃべらないということは、それだけ人物の感情を作者が制御しているとも言えます。この二編の主役ふたりにしても、それぞれの場面での感情の表現はとても分かりやすいし、自然なものとして読めます。ただ、ちょっと大胆にいうなら、その自然さというのは吉村史観の虜囚なんだろうなあ、と読んでいるうちに感じました。

吉村さんは歴史を小説にしているのですが、歴史の中の空白や断絶を、勝手な想像で埋めようとは決してしていなかったようです。なにかしら史料にあたり、許せる限りの根拠のある情報で空白を埋めようと努めていたのだと、私は考えます。厳密な史料至上主義、なんて言葉にしてしまえば、それは肯定も批判もされることになるでしょうけど、なんのことはありません、吉村昭の作品はおもしろいからそれでよいのです、と、私は思っています。

この二編の作品は、ひとつは天保期、もうひとつは幕末から明治にかけての、ごく小さな事件を扱ったものですが、それぞれの時代に大きく影響を受けているから、描かれる価値があったのでしょう。敵討ちの話なんてなんてことはないごく個人的な話のはずなのに、これを描いた理由として吉村さんは、あとがきの中でそのように触れていました。また、どちらの作品でも、敵討ちを遂げた当人のその後の人生まで触れているところも、いかにも吉村昭らしい話になってます。「いかにも吉村昭」ってのは曲者ですよホント。この人は完璧ですから。完璧なものに対して「いかにも完璧」っていうのはおかしいわけでして。

くどいようですが、吉村昭作品はおもしろいです、どれもこれも。しかしながら、吉村昭作品に対するこのモヤモヤした反抗心は、一体なんなんだろうか、自分でもまだはっきりしません。